文章がヤバイ人っているじゃないですか。最近、割とフォーマルな文章をやり取りした人が結構なヤバさだったので、改めて意味の分かる文章を書くということについて考えてみたんですが、これはテクニックどうこう言うよりも、自分で文章の見直しをしているか (推敲してるか)と、他人に文章を直してもらう機会があったか (添削を受けたか)、という2点が重要になってくるのではなかろうか、と私は思うのです。このBlogは誰の添削も受けず、私が勢いのままキーボードを叩いて生成しているので、まったくもって模範的でない文章ばかりだとは思います。例えばこの記事におけるここまでの文章を見ても、一文が長すぎるとか、主語と述語の位置が離れすぎているとか、指摘しようと思えば幾らでもできると思います。しかし、意味が分からない文章では無いと思うんです。
先ほど挙げた、「一文が長すぎる」とか「主語と述語の位置が離れている」というのは、文章力の指南書には大体載ってる悪い例なんですが、世の中には「そもそも主語がない」とか「接続詞が正しく文を接続できていない」といった、もっと低レベルなところで理解不能な文章を書く人が数多くいます。分かりにくいのではなく、本当に意味が分からない文章を書く人が一定数いるというのは、質問掲示板とかネットニュースを見れば分かると思います。私はとある国立大学を卒業していますが、同じ大学に通っていた人の中にも、意味不明な文章を書く人はいたので、単純に高校までの勉強が出来れば文章もちゃんと書けるというわけではなさそうです。ちなみに、冒頭で述べた結構ヤバイ文章を書く人も、有名な私大をちゃんと卒業している人です。
それで学校教育における文章力の向上について、これまで自分が受けてきた教育を思い返してみると、小学校から高校までの期間で、授業として日本語文章の添削をちゃんと受けた記憶というのがあまり無いんです。小中学校の頃は、作文を頻繁に書かされていましたが、先生が文章中の良い箇所に波線と丸をつけ、分かりにくい箇所にはクエスチョンマークがつけられて返却される、というようなことはあっても、その返却された作文を再度直して提出するということはほぼ無く、言わば「書きっぱなし」で終わっていた気がするのです。これでは文章力の向上はあまり望めません。ただし、授業という扱いでない場面で添削を受ける機会はありました。例えば小学校高学年のときは、担任の教員と交換ノート形式で文章をやり取りする制度があったので、日記のような事実の記述から世の中で起きていることに対する自分の考えまで、色々なことを書いて提出していました。それに対し教員は、分かりにくい部分について次回提出分で説明するよう求めてくるので、書き直しを含む添削に近い指導を受けていたことになります。また高校のときは、私は新聞委員会で編集長を務めていたので、自分の文章は顧問の国語教員に添削されていましたし、他人が書いた文書を読んで (顧問が添削する前段階で)修正を求めるというようなこともしていたので、少なくとも文章の良し悪しについて考える機会は多くありました。
家庭では、確か小学生の時だったと思うんですが、私が学校で書いた作文を読んだ父が怒りだして、ある程度まともな文章が書けるようになるまで毎日、日記を書いて提出させられていた時期がありました。この時は父が読んで、父が意味不明だと判断したら書き直させられていたので、これも添削を受けていたということになるでしょう。父の勉強の教え方には理不尽なところも数多くありましたが (というか、理不尽だったことばかり記憶に残る)、今となってはその理不尽さを含んだ熱意もありがたかったなぁと思います。
次に推敲について考えてみると、私は今でも推敲が足りないと指導教官から怒られることが度々あるのですが、自分の書いた文章を全く見直さないということは、基本的にありません。駄文を垂れ流しているだけのこのBlogの記事も、一応何度か読みなおしてから公開し、公開した後もたまに読み返して修正を加えることがあります。自分の書いた文章を見直すときは、内容によって読みなおす時の気持ちを切り替えるのが重要だと私は思っています。自分の主観を強く押し出したいときは、ある程度文体が乱れていても、流れが悪くなければ修正はしません。一文がかなり長くなっても許容します。それは、私の中の考えのステップを反映していて、それを読み取ってもらいたいと思っているからです。一方、客観的な内容にしたいと思って書いているものであれば、読んだ人に誤解が生じることの無いよう、自分の中の勝手な前提や省略をなるべく排除し、丁寧な文章になるよう気をつけています。
文章がヤバイと自覚している人、あるいはヤバイと他人から言われた人は、とりあえず身近な人に自分の書いた文章を読んでもらって、感想を求める謙虚さを持つ必要があるのではないでしょうか。添削してもらう回数を重ねれば、自分で推敲し修正できる範囲がだんだんと広がっていくはずです。さらに上達を目指すなら、新聞でも小説でも実用書でも、それなりに文章力があると思われる人達の書いた文章を読んで、その文章の良い点、悪い点を見つけられるようにする訓練が役立つと思います。
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Posted 29 9月 2016
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Tagged: 勉強
「宇宙のステルヴィア」全26話を観終えた。2003年に放送されたアニメで画面も4:3のアスペクト比であるが、グラフィックや音楽の出来が良く、何よりストーリーが非常に面白い。
何がどう面白いのか説明するのは難しいのだが、1つ挙げるなら「テンプレな展開や演出が少ない」というのがある。テンプレはテンプレで分かりやすくて良いと思う場合もあるのだが、型にハマったものばかり観ていると、自らの思考も幅が制限されてしまい、ひいては偏見や差別につながってしまうように思う。
現実世界では敵味方の区別なんてはっきりしないし、同じような境遇に置かれていても人によって考えていることは全然違ったりする。そういうことを思い起こさせてくれる作品は面白い。
本作の主人公、片瀬志麻は、至って普通の環境で育ってきたと思われるが、感情の面倒な奴である。もし私の身近にいて深く関わることになったら、きっと私は戸惑うだろう。でも、それが人間というものだと思うから、それで構わないのだ。
ごちゃごちゃと感想を書いてしまったが、とりあえず「宇宙のステルヴィア」は面白いし、色々と考えさせらえる。昔の皆さんありがとう。
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Posted 22 8月 2016
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Tagged: アニメ, レビュー
過去に自分が書いてきた記事に検索をかけて調べてみると、「ヘッドフォン」と「ヘッドホン」の表記が混在している。どちらかというと、「ヘッドフォン」と書いていることの方が多い。ただし、「イヤフォン」と「イヤホン」では「イヤホン」の方が多い。多分これからも気分次第で表記はまちまちになると思う。
私は毎日、少なくとも2,3時間はヘッドフォン (インナーイヤーヘッドフォン、つまりイヤフォンを含む)を装着して、音楽やラジオを聴いたり、アニメを観たりしている。泊まりがけで外出する際も携帯音楽プレイヤーと共に必ず持っていくので、ヘッドフォンを一度も装着しない日というのは殆ど無い。ヘッドフォン大好き人間である。ベッドで横になる時や、机に座っての作業中など、室内で使用している時間のほうが長いが、野外でもヘッドフォンをして街中を歩いたり、電車やバスに乗ったりする。
しかしながら、ヘッドフォンを装着した他人を見て、「自分にはとても真似できない」と思うことがある。それは、飲食店と小売店でのヘッドフォン使用である。まず飲食店の方だが、ここで言う飲食店とはもちろん小汚いラーメン屋や牛丼チェーン店のことで、こういった1人客が多い飲食店では、割と頻繁にヘッドフォンを装着したまま食事をしている客が見受けられるのであるが、私としてはいくら音楽やラジオを聴くのが好きでも、外食中にヘッドフォンで聴こうとはとても思わないのである。後者の小売店というのももちろん庶民的なスーパーマーケットやコンビニエンスストアのことであるが、私はヘッドフォンを取ってから中に入るようにしている。その理由としては、食事や商品に集中していてなおかつ耳も塞いだ状態は、不特定多数の人間が出入りする環境下では危険だと思うからである。少なくとも私にとっては。
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Posted 11 8月 2016
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・「Rewrite」
神戸小鳥の声 (CV.斎藤千和)がたまらんな。主人公が好印象なので楽に観れる。
・「この美術部には問題がある!」
暇つぶしアニメとしてはまぁまぁ。
・「はんだくん」
暇つぶしアニメ。
・「ばなにゃ」
なぜか観ている。
・「不機嫌なモノノケ庵」
女性向けな感じはするが、観ていてそれほど不快ではない。
・「Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ ドライ!!」
今期もギャグが冴えている。
・「91Days」
少し遅れて観始めたが、ストーリーに吸い込まれて一気に最新まで追いついた。面白いと思う。
・「タイムトラベル少女~マリ・ワカと8人の科学者たち~」
全然期待していなかったのだが、割と面白い。あと、勉強になる。ED曲は「Steins;Gate」のゲームで使われていた曲に似ているなぁと思って聴いていたら、作曲者が同じだった。
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Posted 10 8月 2016
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Tagged: アニメ, レビュー, 音楽
京都市の北西方向に愛宕山という名前の山がある、ってのは知っていた。
二次元世界で愛宕というと、一般には「艦これ」の方が有名なのだろうが、私にとっては「咲-saki-」に登場する姫松高校メンバー、愛宕洋榎&愛宕絹恵の愛宕姉妹である (彼女らの母親で千里山女子監督の愛宕雅枝もいる)。「咲-saki-」には読み方の難しい名前ばかり登場するので、キャラクターの名前に関係する名詞は気になってしまうのだ。
先日、たまたま仕事で愛宕山に行く機会があり、途中まで登ってきたのだが、結構しんどくて疲れ果ててしまった。斜面で滑った際、手首にちょっとした擦り傷を作ってしまった上、帰りの下り道では右足首を軽く痛めてしまった。特に寝不足や体調不良でもなかったので、恥ずかしい限りである。
これまでに何度か登っている大文字山は標高が465.4m (Wikipediaより)であるが、愛宕山 (京都市右京区)は924m (同じくWikipediaより)と、ちょうど倍くらいある。
家に帰ってから愛宕山や愛宕神社について調べてみると、「愛宕山」という名前の山は日本各地にかなりの数あるようで、それは京都の愛宕神社から発祥した愛宕信仰が全国に広まり、愛宕神社が各地に建てられ、それに伴って山の名前も「愛宕山」(読み方は「あたごさん」と「あたごやま」が混在しているようだ)と付けられたようだ。つまり、各地の愛宕山の大元は、京都の愛宕山ということになる。
なんのオチもないただの日記的文章である。
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Posted 03 8月 2016
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Tagged: 旅行