伊集院光さんのラジオで読まれたネタに、「賢者の贈り物」という小説が登場したのだが、私はそれを読んだことがなかったので、ネタの面白さを十分理解できていない気がした。そこで、「賢者の贈り物」についてネットで調べ、あらすじだけでも知ろうと思った。すると、この作品はO. Henry 作の短編小説で、青空文庫で訳が読めることが分かった。青空文庫で公開されている日本語訳の翻訳者は、IT技術者にはよく知られた、結城浩である (図書カード:賢者の贈り物)。
「賢者の贈り物」について調べる過程で、私は「Project Sugita Genpaku」というサイトの存在を知った。ここで進められている「プロジェクト杉田玄白」は、日本語以外で書かれた文章を翻訳して公開するプロジェクトらしい。「賢者の贈り物」もこの「プロジェクト杉田玄白」の正式参加作品として紹介されている。私はこのサイトで紹介されている幾つかの翻訳文を読んでみたが、その中に「ちびくろさんぼ」 (原題: The Story of Little Black Sambo)があるのを見つけ、懐かしく思って読んでみた。
日本語版の「ちびくろサンボ」(表記は版により異なる)は様々な出版社から出ていたらしいが、私は父方の祖父の家にあった岩波書店の「ちびくろ・さんぼ」を読んだことがあった (祖父は読書家であるが、中でも岩波書店の本を多く持っている)。私の両親は父方の祖父とは異なり、あまり書籍を購入して溜め込むことをしないので、私が幼少期に読んだ絵本は多くが図書館で借りたものであり、そのため何度も繰り返して読むということをしなかった。一方で、年に3回行くのが通例であった父方の祖父の家には、いつも同じ絵本があるわけで、その1つであった岩波版「ちびくろ・さんぼ」は私の記憶にしっかり残っているのである。
私はこれまで全く知らなかったのであるが、岩波書店は1988年に、これは私の生まれる1年前であるが、この「ちびくろ・さんぼ」を絶版にしている。その理由として、著作権上の問題があった可能性も指摘されているが、本作の内容に黒人に対する差別が含まれるという趣旨の抗議があったらしい (参照: ちびくろサンボ – Wikipedia #一斉絶版問題)。「Project Sugita Genpaku」のサイトには、「ウェブで読める、ちびくろさんぼ関連の意見」というページも用意されている (ただし多くがリンク切れ)。
ある本が差別的な内容を含むと考えて抗議をすることは自由であるし、抗議を受けて出版社が絶版にするのも自由であるが、以前読んだ本を読み返せない (読み返すのが難しい)というのは悲しいことである。また、公的な資金により購入された本が、図書館や学級文庫などから取り除かれたとすると (「ちびくろサンボ」では焚書もあったらしい)、それは国民の権利・利益を損なっていないか、よく考える必要があるのではないかと思う。
私は「ちびくろサンボ」の内容が差別的だとは思わないが、差別的かどうかという議論よりも、差別的な内容を含む (あるいは含むと一部の人が考える)作品をどう扱うかという議論に興味がある。
まず前提として、作品から受ける影響というのは人により様々である。人種差別に関する議論をある程度知っている大人の私が「ちびくろサンボ」を読むのと、知識や理解力の限られた子供が読むのとでは、全く異なる。次に、少なくとも親は、年少の子供が読む本 (映像や音声でも同じ)について、それを選別する権利があると私は考える。親には子供を教育する責任があるので、教育の一環として子供が読む本を制限することは必要である。加えて、表現の自由は公共の利益に反しない範囲で保障されるべきである。
以上の私の考えから結論を述べると、先にも書いたように、抗議や絶版は自由であるが、既に出版された本の廃棄はやり過ぎであり、例えば子供向けの図書館であれば、書架には置かないが注文すれば読めるようにする、等の対策で十分ではないだろうか。親は、自分の子供に特定の思想を含む本を読ませたくないのであれば、自分がきちんと精査して制限すれば良いのである。読みたいと思う人の権利を損なうことまでする必要はない。本の存在が社会全体に悪影響を及ぼすと考えるのであれば、本を読んだ人が抱くと考える差別意識を覆すような知識・考えを広める活動をする方が有意義である。
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