Pがちがう

作: Hiroki ITO, 校正: Mikiyasu KOBAYASHI

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パッポー、パッポー、パッポー、……

ボックスの壁にかけてある鳩時計が7回鳴る。時刻は19:00だ

桜「あの、これ言いにくいんですが……」

パスワードが変更された理由を考えていた俺の思考を遮るように発言したのは、しばらく黙っていた桜だった

桜「会長さんのパスワードが変更されていた理由なら、真っ先に考えられる理由があるんです」

茜「なんだと?」

姫花「桜、それは一体?」

そういうことは早く言おうね

桜「皆さん、犯人が会長のパスワードを入手した後、その情報を使ってパスワードを変えたと考えてるみたいですが」

桜「多分、犯人は会長のパスワードなんて知らないんじゃないかと思います」

瑠璃「ならどうやってパスワードを変更したのかしら?」

桜「考えてみて下さい。例えばWEBのサービスで、利用者がログイン情報を忘れてしまうってことはあり得ますよね」

茜「確かに。私も一年くらい使ってなかったネットショップのアカウントとか、忘れることあるな」

駿「そういう場合って、大抵は申請したらパスワードがリセットされて、登録してあるメールアドレスに仮パスが送られてくるんだよな」

桜「そうです。WEBサービスの場合はそんな感じです」

桜「そしてここで重要なのは、今まで使っていたパスワードがメールで送られてくるわけではない、ということです」

瑠璃「それは、そのサービスの管理者も、利用者のパスワードは分からないってこと?」

桜「その通りです。一昔前ならともかく、今はパスワードをハッシュ化して保存するのが常識です」

茜「ハッシュ化?」

桜「簡単に言うと、パスワードがコンピュータやサーバーのどこかのファイルに、そのまま書かれているわけではないんです」

桜「だから、利用者がパスワードを忘れたと言ってきても、root権限を持つ管理者でさえ、元のパスワードがなんなのかは分からない」

桜「よって、該当するアカウントのパスワードをリセットし、利用者が再設定するようにすることしかできないんです」

茜「難しいことはよく分からないが、それが今回の事件とどう関係あるんだ?」

桜「同じなんです。WEBサービスもOSも」

桜「管理者権限を持つユーザーは、一般ユーザーのパスワードをリセットできるんです。MacでもLinuxでも、それにWindowsも同じです」

瑠璃「そうなの!?」

姫花「確かに、そういう仕組みが無ければ不便だろうな」

言われてみればそりゃそうだ。パスワードを忘れるたびにユーザーを新しく作り直さなければならないとしたら、大変だ

姫花「パスワードを知られた、という前提で話してしまっていましたが、どうやら間違っていたようですね」

駿「パスワードをリセットするしかなかったとすれば、会長のアカウントでパスワードが変更されていたのも説明がつく」

瑠璃「そうね」

瑠璃「……」

瑠璃「ところで、このコンピュータ上のMacで管理者権限を持ってるのって……」

瑠璃「桜ちゃん、よね?」

桜「えぇ……まぁ」

あぁそうか、だから桜はこの話をする前に「言いにくい」と前置きしたのか

姫花「なるほど、そうなると怪しくなるのはやはり管理者権限を持っていた桜、ということになってしまうな」

桜「うぅ……」

桜「だから言いにくかったんだよ。でも後から分かったらもっと疑われそうだし」

茜「確かに、犯人が自分から犯行に関わる重要な論点を明らかにする、とは考えにくいな」

茜「だが、逆にそれが真実から思考を遠ざける罠、という可能性も捨てきれない」

桜「うぅ……」

この状況で桜が犯人でないとする証拠が無い以上、桜に嫌疑がかかってしまうのは仕方の無いことだ

瑠璃「そうね、とりあえず、桜ちゃんは事件解決までコンピュータに触らないのがいいかもね」

駿「どういうことですか?」

瑠璃「えっ? だって桜ちゃんって、この中じゃ一番コンピュータに詳しいでしょ?」

瑠璃「今一番怪しい人が、捜査の過程でコンピュータをいじったら、証拠隠滅だってさらに疑われそうじゃない?」

駿「た、確かに」

いくら桜でも、スイッチを入れるだけでバグもシステムエラーも解決できるとは思わないが

何らかのショートカットキーやエイリアスを設定していないかと問われれば、設定してないこともなさそうである

姫花「そうですね」

姫花「桜はとりあえずキーボードとかマウスとか、操作しないこと。いいか?」

桜「はーい」

まぁこれは適切な処置だろう

どんな事件だって、好き好んで容疑者に証拠となる可能性のある物をいじくらせたりはしないだろうからな

駿「しかし、それなら誰がコンピュータの操作をするんですか?」

駿「桜が怪しいのは確かですけど、犯人が別の人、あるいは共犯という可能性もありますよね?」

茜「それは難しい問題だな」

姫花「コンピュータ上で起こった事件である以上、コンピュータを操作せずに、というわけにはいかないでしょうね」

瑠璃「そうよねぇ」

事件の捜査をするには、誰かがコンピュータの内部を調べる為に操作をする必要がある

しかし、目下最も怪しいのが桜なのは間違いないが、ここにいる全員が容疑者であるというのもまた同じく事実なのだ

ここでコンピュータの前に座ってキーを打つのに相応しい人物と言えば……

姫花「この中でと言うのであれば」

山吹が芝居がかった様子で全員の顔を見回し……それから宣言した

姫花「やはり、ここは会長にお願いしましょうか」

瑠璃「えぇそうね」

桜「確かにそれならば」

駿「異存ありません」

俺も含めて皆の意見は一つだった

茜「えっ? 私?」

言うなれば、会長に対する信頼とでも言うべきか

もっとも、その信頼とはコンピュータを扱う能力の低さに対する信頼であるが……

ーーー

ポチポチと パスワード打つ 茜さん

桜が紙に書いて会長に渡したパスワードを入力し、桜のアカウントでログインが行われた

桜のアカウントでログインするのは、管理者権限でないとログが見えない為と、パスワードのリセットを実行する為だ

桜「それじゃまずは、Terminalを立ち上げて、"last"って入力して下さい」

茜「たーみなる?」

桜「Linuxで言う端末、といっても分からないですよね……」

桜「Dockに黒いウィンドウみたいなアイコンが登録されています。それです」

茜「これか?」

桜「えぇ」

ちなみに、朝比奈さんや山吹、それに俺は桜が怪しい指令を会長に与えたりしないか、気を配っている

いくら桜が直接触らなかったとしても、会長に指示して操作させたとしたら、同じことである

桜「Terminalが開いたら、英語で"last"って入力して下さい」

茜「l, a, s, t、だな?」

桜「はい、そうです」

ポチポチ

両手の人差し指でキーボードを探しつつ、会長はキーと打っていく

これなら、画面と手元をかわるがわるに見ても、変な操作がされていないか十分チェックできる具合だ

もしこれが桜なら、ウィンドウを幾つも立ち上げて素早く操作してしまうだろうから、画面を見ていても何をしているのかさっぱりという可能性が高い

桜「そしたらあとはreturnキーです」

茜「うむ」

ちなみに、ボックスに置かれているこのMacはMMDだかMDDだかいう名称のやつで、確か10年前くらいに製造されたものらしい

桜が自分でHDDやメモリ、インターフェイスカードなどを増設しているらしく、今でもそれなりにしっかりと動作している

但しディスプレイやキーボード、それにマウスは純正品ではない

キーボードに関して言えば、最初桜が持って来た(但し主に運んだのは俺)時は純正品だったが、朝比奈さんがコーヒーをこぼした結果、今ではLogicool製の有線タイプになっている

マウスについて言えば、Macの純正マウスは長らく1ボタンマウスであったため、流石に今では不便と言わざるを得ず、こちらもLogicool製の無線レーザーマウスになっている

カチッ

桜が指示した通り、会長がTerminal上でlastコマンドを実行する

"last"コマンドはunix系のシステムで基本的なコマンドであるから、特に怪しいことも無いだろう

桜「これで表示されているのが、このコンピュータでのログイン履歴です」

桜「ユーザーがログインした時間、シャットダウンや再起動させた記録が残っているので、役に立つと思いますが……」

ふむふむ、そうだな

姫花「駿、この履歴から、誰がいつからいつまでログインしていたか、分かりやすいように表にまとめてくれるか?」

駿「あぁ、分かった」

普段ならこういうのは桜の仕事だが、今日は事情が事情なので俺が担当する

ええっと、まとめるのは会長が最後にログインした時からでいいか……となると、

Akane 20xx/4/13 15:48 - 16:03

Syun 20xx/4/15 12:11 - 13:15

reboot 20xx/4/15 14:40

shutdown 20xx/4/15 14:42

Luri 20xx/4/15 14:51 - 15:07

Himeka 20xx/4/18 18:12 - 18:28

Sakura 20xx/4/18 18:51 - still login

駿「できたぞ」

今日が18日で月曜日、最後に会長がログインしたのは水曜だから、土日は誰も電源を入れていないことになるのか

姫花「会長が最後にログインした水曜から、桜のアカウントではログインされてないようですね」

瑠璃「そうねぇ」

茜「それじゃ、桜が犯人ではないということか?」

それは言えないだろうなぁ

駿「しかし、これくらいのログ、桜にはいじれるだろ?」

実際問題として、ログファイルの書き換えは簡単ではないが可能である

桜「そりゃまぁ……」

駿「他に誰か、自分が使ったはずなのにログが残ってないとか、逆に使ってないはずの時間にログが残っているとかありませんか?」

もしそういった不自然な状況が生じているとすれば、犯人の残した形跡である可能性もある

茜「いや、最初に言った通り、水曜から使ってないな」

瑠璃「そうねぇ。確かこの時間だったと思うわ」

姫花「私の分もおかしなところはないな」

桜「桜もこの期間内にログインした覚えは無いと証言しておくよ」

やはりダメ、か。まぁ犯人は本当のことを言わないだろうしな

うーむ、こうなるとこれ以上コンピュータを操作しても、有用な情報は出て来ないことになってしまう

茜「他に手がかりになりそうなものはないのか?」

桜「"syslog"とか見てもいいですけど、"last"よりずっとややこしいし……」

桜「あとは会長の/home以下にあるファイルを開いた日時を調べるとか……」

どうしたものだろうか

犯人のミスで何か手がかりを残していることに期待しコンピュータを隅から隅まで洗うのは大変そうだし……

ログを見ても、それがRAWな状態であるとは断言できない

それ以外に何か、こう今までの部分で何か引っかかるような、不自然なことは無かっただろうか

ん? ちょっと待てよ? そういえばさっき気になってたことがあったんだ

駿「ちょっといいですか? さっきの15日のログですけど」

駿「俺が使ったあと、ユーザー名が無くて起動とシャットダウンをしているところがありますよね」

姫花「そうだな」

桜「ユーザー名が記録されていないということは、ログイン画面でシャットダウンさせたということかな?」

瑠璃「あぁそれ、私よ。時間が私がログインする前でしょ?」

確かに。ログを見ると、朝比奈さんは電源を入れてからすぐシャットダウンさせ、10分ほど経ってまた電源を入れている

茜「朝比奈が一旦電源を入れた後、ログインせずにシャットダウンさせた、ということか? なぜ?」

瑠璃「えっ? えぇ……ちょっとね」

「あはは」と朝比奈さんはごまかすように笑う

桜「まさか、何か不具合とかですか? ポートが死んでたとか?」

何と言っても10年も前のマシンだからな。USBポートの1つや2つ、いつ潰れてもおかしくは無い

瑠璃「えぇ……まぁそんなとこよ。でも大丈夫、ちょっと配線を確認したらちゃんと動いたから」

桜「そうですか」

何か怪しいな。朝比奈さん、何か隠していることがあるのだろうか?

姫花「……」

桜「うーん、悩むなぁ」

駿「そうだな」

桜「ねぇ駿」

駿「なんだ?」

桜「やっぱり駿も、そろそろPower Mac G5にした方がいいと思う?」

お前が悩んでいたのはそっちかよ!

というか、新調するならIntel Macを買えよ。多分その方がコストパフォーマンス高いぜ

桜「やっぱりね、PowerPCにはロマンがあるんだよ」

桜「最近のMacはIntelのCPUとチップを採用することで、普通のDOS/Vマシンとの差別化が薄れたというか何というか」

残念だが、桜の言うロマンとやらは、俺にはさっぱり理解できない

駿「ところで桜、今まで俺たちは管理者権限を持つ桜のアカウントで別の人間がログインしたという仮説で調査していたわけだが」

駿「桜のパスワードはしっかりしたものだったのか?」

桜「うーん、そこなんだよね。私のパスワードは大文字小文字に数字と記号まで加えて。えーっと、8桁」

桜「一般的な外部公開用サーバーで使っても大丈夫なレベルなんだよ」

桜「だから、パスワードの強度的には十分。となると、私のパスワードが知られてしまった、とは考えたくないんだよね」

瑠璃「ということは、犯人がどうやって管理者権限を手に入れたか、ということも難しくなるわけね」

茜「その話を聞くと、余計に桜が怪しく思えてくるんだが」

茜「桜が犯人と仮定すれば、そんなこと不思議でも何でもないんだからな」

桜「わっ!? そっか……」

姫花「……」

姫花「ちょっといいですか?」

茜「どうした?」

姫花「私、犯人分かりました」

桜「えっ!? 姫ちゃんホントに?」

いきなりの発言に、桜だけでなく俺も驚いた

今の話の流れで、一体いつ、犯人を特定するに至る情報が出現したというのだろうか

姫花「あぁ、私が嘘をつくわけがないだろ」

どうやら山吹は自信満々のようである

まぁ確かに山吹は嘘とか吐きはしないな

辛辣なジョークならたまに言うけど。……主に俺に対して

茜「確認するけど、犯人はこの中にいるんだよな?」

会長は俺や桜と同じく、まだ犯人に目星がついていないようだ

姫花「えぇそうです。もちろん犯人はこの中にいます」

山吹が余裕の笑みで断言する

ということは……

山吹が今までの捜査結果を元に犯人を導きだしたと言っている以上、必要な情報は揃っていることになる

のだが……