私は普段から金のことには五月蝿い人間で、ちょっとした金のやり取りにも細心の注意を払うようにしているし、なにか金がからむことで「それはおかしい!」と思うことがあると声に出さずにはいられないタチである。
そんな私が最近よく考えているのは大学の学費に関してである。ちょっと前にも大学に学費を振り込んだが、今現在の国立大学における授業料というのは年間で大体50万ちょいである。この50万が高いか安いかと問われると、多くの大学生、および大学関係者は高いという。実際、もっと安かった時代、授業料なんかロハみたいな時代もあったんだぜ、という話も聞くし、今も大学内には学費を下げろと働きかける活動をしている集団がある。そういや、ちょっと前に観たテレビでも、イギリスかなんかで緊縮財政のために大学の学費が上がり、大学に行くのが難しくなった青年のことを特集していた。
しかし考えてみると、50万というのは全然高く無いと私は思う。大学で自分が使わせてもらっている実験機械や器具、図書館の設備、論文検索などのためのアカウント、そしてもちろん講義・指導をしてくれている先生方の働き。どれをとっても金のかかるものばっかりであり、それらを普通に使えていることを考えれば50万ではとても足りない。じゃあ何故使えるかといえば、そりゃもちろん補助金・研究費があるからである。ではさらに、その補助金やら研究費やらがどこから落ちてきているかと言えば、それは基本的に税金である。税金というのはこれまた当然のこととして国民が支払っているわけだから、その税金は国民のために使われなければならない。だからといって、だったらもっと教育機関に税金を投じて安く教育を受けられるようにしろよ、というのは自分勝手である。なぜなら、だれしもが大学に行くわけではないからだ。そうなると、大学の学費をもっと安くしろと主張する人間は、自らが大学で得た能力を社会のために、もっと言えば日本という国のために使う義務をより背負う覚悟が必要である。
はっきり言って、私にはその覚悟がない。大学で生物を勉強するのは楽しいし、自分の好きなことだから将来的にこの分野で研究者になりたいとも思うけど、最悪、全然関係ない職業に就いてもいいと思っている。ちゃんと社会人として生きて行けるなら、もう生物学はおろか、数学も英語もほとんど必要ない職業で構わない。今学んでいることは趣味の範囲で、自分の楽しみとして一生役に立つのは間違いないと思うけど、それが社会のために役立てられるかどうかは分からない。そういう感じである。だから、大学の学費が高いとは思わない。学費が払えないなら大学なんて別に行く必要の無いところにこだわらなくてもいい、そう思う。
同じことは大学以外のものにも言える。日本も財政難だから支出を減らすためにこれまで税金で運営されてきた施設を民営化したり、もしくは潰してしまったりということがよく生じるが、一部の人たちにとって、ある博物館が、もしくはスポーツ施設が重要だからと言って、同じ税金を払っている他の人から見れば、1μmも必要じゃなかったりする。そういう場合、その施設を維持したいと考えている人は、その施設がいかに地域住民の役に立っているかということのみを主張すべきであって、歴史がどうのとか、働いている人間がどうとか、そういう話をすべきではない。どっから金が出ていて、その金に見合うだけの生産性を上げられているのか、それをよぉく考えるべきだ。これは公営だろうと民間だろうと資本主義社会では当然の理である。何か商品を作って売っている会社なら、その会社内のどんな業務であれ、よい商品を作って客に買ってもらうという最終的な目標のために全員が働いているのが望ましい。お茶汲み係の人だって、その淹れるお茶で他の社員の生産性を上げられるのなら、立派に会社の利益に貢献していることになる。会社で上司の機嫌をとることだけに躍起になる人間はあまり美しく見られないようだが、その上司が権力のみならずものすごい生産力を持っていて、機嫌がいいとその生産力が発揮される、というなら御機嫌とりもそりゃもう立派な業務なんじゃないかと私は思う。そいういう感じで、ちゃんと大きな範囲での損得を考えた言動が出来る人間に私はなりたいと思うし、そう出来ている人は尊敬できる。
という話。
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